スヌーピーは誰もが知っているキャラクターです。
でも、スヌーピーが出てくる原作『ピーナッツ』を読んだことはあるでしょうか?
あるという人は少ないかと思います。
読んだことがあっても、何気ない日常の世界観はつかみどころがなく、どう理解するべきか分からなかったりもします。
『心をととのえるスヌーピー』を監修した枡野俊明さんは『ピーナッツ』の世界に「禅」に通ずるものを見たといいます。
どういうことでしょうか?
この記事では本書の一端をご紹介していきます。
この本はひとことで言えば「ありのままの自分を受け入れる方法を教えてくれる本」です。
- ありのままの自分を受け入れられない
- 「自分ではない何者か」になろうとしている
- 他人のありのままも受け入れられない
こんな風に悩んでいませんか。
この本を読めばこんな気持ちが少しだけ楽になれるかもしれません。
概要
タイトル | 心をととのえるスヌーピー 悩みが消えていく禅の言葉 |
著者 | チャールズ・M・シュルツ |
訳者 | 谷川俊太郎 |
監修 | 枡野俊明 |
出版社 | 光文社 |
発行 | 2021年 |
監修をした枡野俊明さんは曹洞宗の僧侶であり、他著書(『心配事の9割は起こらない』など)も多数あります。
枡野さんは禅の心を『ピーナッツ」』の世界に見出したといいます。
禅というと小難しくてとっつきづらいイメージがあるかもしれません。
本書では禅の世界や考え方を表す「禅語」と、それを表した『ピーナッツ』の一部をセットにして解説してくれます。
スヌーピーやチャーリーブラウンの目線を通せば、その世界が少しわかりやすくなるはずです。
では、その一部を見ていきましょう。
無分別むふんべつ
ルーシー「考えてほしいんだけど…」
「世の中に悪い人のほうが多いの、それともいい人のほうが多いの?」チャーリー「誰が言えるのさ?誰が悪い人で誰がいい人なのかなんて誰が言えるのさ?」
ルーシー「私よ!!」
『ピーナッツ』1973.10.25
「一般的に「分別ある人間になりなさい」など、分別することは良きこととして語られます。しかし、禅では物事をありのままに受け取り、比較しない見方を良しとします。これが「無分別」です。」
「他との比較によって生まれる生まれる満足は、本当の意味での満足ではありません。常に自分と他人との「差」しか見ていないからです。」
「家で、学校で、会社でずっと比較されてきた人たちは、きっと苦しさを感じているのではないでしょうか。この禅語、このコミックとの出会いをきっかけに、他人との比較から卒業してしまいましょう。」
本書ではこのように書かれています。ルーシーは傲慢な性格として、描かれそれは良くないと言われます。
でも僕からすると、善悪の基準を自分の中に持っているルーシーには憧れや尊敬の気持ちを抱きます。
名利共休みょうりともにきゅうす
チャーリー「マーシー、ライトにいなきゃダメだよ…」
マーシー「あなたのそばがいいのよ、チャールズ…」
チャーリー「でも、ライトに球が来たら?」
マーシー「いいでしょ?あなたのそばに立っているだけで幸せなの」
チャーリー「試合に勝てないけど、幸せな選手はいるんだ…」
『ピーナッツ』1988.03.12
「「名利」は名声や利得に執着しない心を持つという意味です。」
「本当の豊かさとはなにかに気づくこと。」
「マーシーは、野球の勝ち負けにはこだわらず、自分の心の充足に目を向けています。私たちも、マーシーのように日々の暮らしの中に心の充足を見つけられると幸せが身近に感じるのかもしれません。」
含蓄のあるセリフですね。
試合に勝つことや、誰かの上に立つことはたことがわかりやすい。
だから誰しも手に入れようとしたがる。
でも価値のあるものはもっと手にしたことが分かりにくい曖昧なものなのかもしれません。
木鶏子夜鳴もっけいしやになく
スヌーピー「あのね、行きたくなけりゃ、冬に備えて南へ行かなくたっていいんだよ…」
「みんながそうするからって、きみがしなきゃならないってことはないんだ」
『ピーナッツ』1990.11.02
「木鶏子夜鳴」は木彫りの鶏は子の刻(深夜)に鳴くという意味です。
「鶏が鳴くのは夜明けで犬の遠吠えは深夜が常識だと思われていますから、これは何物にもとらわれない自由自在の言動を表しています。」
「私たちは、地域、学校など、世の中から「今あることを受け入れることをよし」とする「所与性」や、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、暗黙のうちに強制する「同調圧力」の影響を受け、常識というものにとらわれてしまいがちです。」
なぜ木彫りの鶏が鳴くのかはよくわかりませんが、周りと違うことを恐れないでというメッセージが受け取れます。
同調圧力は大きな力ですから、流されていることすら忘れがちです。
そんなときはスヌーピーのこの言葉を思い出したいものですね。
無心むしん
ルーシー「ときどき、どうしてあなたは犬なんかでいられるのかと思うわ…」
スヌーピー「配られたカードで勝負するしかないのさ…」
「それがどういう意味であれ」
『ピーナッツ』1991.10.04
「心を無にすることが「無心」。こう聞くと(中略)難しく考えてしまうかもしれません。「無心」は決して難しいことではありません。心を空っぽにすればいいのです。」
「下心を捨てて、ありのままの自分の姿を相手に見せる。いつでも、どのような相手に対してもでも自然体の自分で臨む。」
「人はどんな現実に直面していようと、自分に与えられた場所でありのままの自分を精一杯生きればいいのです。スヌーピー風に言い換えれば、「配られたカードで勝負する」ことが大切です。」
今の自分が理想の自分と言える人は多くないはずです。
あらゆるものが思う通りにいきません。
「配られたカードで勝負する」言い得て妙だと思いました。
手札を変えることはできない、でもどう使うか自分で決めることができる。
どうなりたいか、自分の理想を突き詰めるのは、一度無心になりありのままの自分を見つめてからでも遅くなさそうです。
ともあれ、そこまで達観しているスヌーピーって何者ですか?
閑坐聴松風かんざしてしょうふうをきく
チャーリー「大勢のなかにいて寂しいって思ったことはあるかい?」
ルーシー「あるわ、何度も…ほんとのこと言うと、大勢の中ではいつでも寂しい気がする…」
チャーリー「ほんとに?」
ルーシー「そうよ」
チャーリー「寂しく思わないのは、ひとりでいるときだけよ!」
『ピーナッツ』1957.09.16
この話はすごく難しくて色々な見方ができそうです。
あなたはどう感じましたか?
「「松風」は松の葉が風を受けて鳴らす小さな音のこと」
「「閑坐聴」ただ静かに坐って聴くこと。」
「静かな時間を持つと、自ら、自分に必要な大切な芯をつかむことができます。(中略)ひとりでいるときに寂しさを感じないというルーシーはもしかして「松風」を聞いているのかもしれません」
著者が言うにはルーシーはひとりでいることで、自分と向き合うことができるから寂しくないと感じられると見ています。
ぼくは大勢の人といると、心通じ合うことができず、かえって自らの孤独が浮き彫りになるから寂しいととらえました。
どちらが正解ということもないでしょうが、ルーシーの気持ちは少し理解できる気がします。
おわりに
ほんの一部でしたが『心をととのえるスヌーピー』の紹介でした。
僕自身、禅もスヌーピーも全く知らない状態で読みましたが、とても分かりやすくて共感もできる内容でした。
海外の人を日本人は考え方が違うなんて、よく言われます。
でも『ピーナッツ』を読んでみると、同じようなことで悩んでるんじゃないかななんて思いました。
実際の書籍ではコミックがそのまま載せられていますので、可愛らしい絵柄にも癒やされますよ。
気になった方はぜひ手にとってみてください。
ありのままの姿で生きるキャラクターや禅の世界にふれることで、ありのままの自分を受け入れる手助けになるはずです。
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